A型事業所に通い始めました。
最近、A型事業所に通い始めました。早く一般就労に戻りたいという思いと、パソコンのスキルを習得できれば良いなという思いから、行くことを決めました。
パソコン技術習得のためにテキストを読んでいるのですが、なかなか頭に入ってこない状態で悩んでいます。うつ病が悪化してから、集中力・思考力が落ちてしまい、最近ようやく柔らかい文章の小説が読めるようになってきました。まだ治りきっていないのに無理をしているのかもしれないという思いと、多少圧をかけないとという思いで頭がぐるぐるしています。
もしかしたら、自分は頭が悪くなったのではないかという不安があります。まあ、もともと頭は良くなかったけどと考えつつ。
不安を挙げだすとどうしようもないので、ひとつひとつ片づけられそうなことから手を付けていきたいです。
追記
A型事業所に通うまでに、手続等で一カ月くらいかかることはよくあるので、行きたいと考えている方は早めに手続きをされた方が良いと感じました。
レールに乗りたかった
少し前に仕事を辞めました。
「レールに乗った人生なんてつまらない」と愚痴を零す人も多いのでしょうが、私にとってはこれまで発達障害的な特性(コミュニケーションの難しさ、どうしようもない認識のずれ等)からどう頑張っても「普通」になれなかったので、レールに乗れている人が非常に羨ましく感じます。
私がなりたい人物像は、資格取得に励んで、バリバリ働いて、弟の奨学金を返すのを颯爽と手伝えるような人です。理想を高くし過ぎた部分があると思うのですが、そんな風に皆から頼りにされて、憧れられたかった。
現状はうつ病を悪化させて、何かをするのも外に出るのも億劫な状態です。日によってはベッドに一日中いる日もあります。
憧れられたい云々に関しては、私の自己肯定感が低いため、他人から手っ取り早く肯定を得たかったからということが理由だろうなと考えています。
目標としてきた自己像がある意味では、死んでしまったので、途方に暮れています。
もうどうしようもないことではあるのですが、「普通」の人になりたかったなぁ。
空白期間について(1)
ブログの更新が無かった期間がありますが、どうしていたのかというと、大学を卒業して、悩んだ末に既卒者として就職活動をしていました。
私は大学生時代の新卒としての就活を、上手く進めることができませんでした。
何とか就職したものの、合わずに数日でやめ、最初にいた会社のことは完全になかったことにし(会社の健康保険に入る前だった)、再就職活動をすることに決めました。
既卒者として就職活動をしていて驚いたことは、卒業から3年以内から5年以内などの区切りのある会社もありましたが、既卒者でも選考を受けることができる企業が多かったことです。未だに耳にする既卒者になったら終わりということも、そうではなくなってきているのではないかと感じました。
辛かったことは、友人が働いているなかで自分だけ再度、真っ黒なリクルートスーツを着て黙々と就職活動を行っていて、孤独に感じたことです。これは本当に辛かった。
転職ではなく、既卒者として就職活動を行うなかで、孤独感が一番の敵でした。私が意識的にしていたことは、友人と会ったり、ハローワークの担当者と会うようにしていました。
就職活動で不利に感じた点は、当然のことながら卒業してしまい、電車料金がそのまま学割なしで負担になってしまうことでした。これは特に地方に暮らしている人にとっては、出費が大きいと感じました。
空白期間の半分くらいは、再就職活動をしており、もう半分くらいの期間は就職をして働いていました。就職をして働き、うつを悪化させるまでの過程はまたまとめたいと思います。
ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち 吹き替え版 感想
普段、映画を見るときには洋画は字幕で見るみかんですが、痛恨のうっかりミスで吹き替え版を見ることとなってしまったので、吹き替え版の感想を書いていきます。
(ちょこちょこうろ覚えなところがありますので、大体こんな話だったと思いながら書いています。)
原作はランサム・リグズ作の『ハヤブサが守る家』という小説です。
今作は監督がティム・バートンと聞き、見に行くことを決めました。
あらすじ
主人公の少年ジェイクが周囲といまひとつ馴染めない状態でいる描写からスタートします。
奇妙なお話をする祖父の死から状況が変わっていきます。祖父の死に立ち会ったジェイクは、真っ黒な怪物を目にします。
(この怪物のデザインが『亜人』に出てきそうだと思いました。)
彼は誕生日パーティで祖父が残したものを受け取ります。
祖父の残したものを見て、彼はウェールズへと行くことを決心し、ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたちが暮らす家へと向かいます。
感想
オープニングの映像がティム・バートンらしいちょっと怖い演出と不思議な感じがあるものでした。物語に没入するにはふさわしい始まり方でした。
『奇妙なこどもたち』はそれぞれ特殊な能力(ex 怪力、植物の成長を早める、物に命を吹き込むことができるなど)を持っており、『X-MEN』に出てくるミュータントのようだと感じました。
ミステリアスな雰囲気をまとうミス・ペレグリンと『奇妙なこどもたち』は、同じ一日を繰り返す『ループ』のなかで生活をしていて、彼らの特殊な能力の一端を披露していきます。
中盤で特殊な能力を持つ人たちの中でも、派閥があり、永遠の命を得るために化け物と人間の姿とを行ったり来たりしている者たちが登場します。
序盤に出てきた怪物の正体は彼らのうちのリーダーのポジションにいる人物でした。彼らが化け物の姿から人間に戻る条件は、特殊な能力を持っている人たちの目玉を食べることでした。
説明を聞くジェイクは戸惑い自分には特殊な能力はないと言いますが、ミス・ペレグリンの家に入ることができる人は特殊な能力を持った人だと告げられます。
彼の祖父の能力は、化け物の姿を見ることができるというもので、序盤に出た化け物も彼にしか見えないということがここで分かります。
映画版だからか一人ひとりになかなか尺が割けなかった印象です。『私をはなさないで』のときと同じく、原作を読まずにいきなり映画館に行ってしまったので原作だともっと一人一人に尺が割かれているのかなという印象でした。タイトルにミス・ペレグリンとありますが、彼女よりもジェイクと奇妙なこどもたちが目立っていたので、役者さん目当てでもし見る人がいたなら、そこのところは注意かなと感じました。
お気に入りのシーンは、ミス・ペレグリン救出のために、化け物に立ち向かうシーンです。おどろおどろしい化け物に立ち向かうシーンでも、どこかコミカルさがあったことが好きなシーンになった理由です。
演出のおかげで怖い場面が少しユーモラスな感じ(ex.目玉を食べるシーンの目玉が玩具のようだったなど)になり、全体的に怖さがマイルドになり、見やすくなっていました。
続きがありそうな終わり方をしたので、続編に期待しています。
葉牡丹が嫌いだった話
ある日、綺麗な葉牡丹を見るものの、嫌悪感を抱くという出来事がありました。
そのときは、嫌悪感を抱いた理由は思い出せませんでした。
私が見かけた葉牡丹自体はとてもきれいなものだったので、嫌な気持ちを抱くのかを「何故」と繰り返すことによって掘り下げていきました。
よくよく思い出してみると、葉牡丹にまつわる私の嫌な思い出は小学校高学年の頃にありました。
当時、私が通っていた小学校では、葉牡丹を育てて、地域のお年寄りに渡しに行くという行事がありました。
お年寄りに葉牡丹を渡しに行く際は、学校側が定めた縦割りのメンバー(大体は住んでいる町ごと)で回るように指示されていました。
集団行動が苦手な私にとって、この行事はただひたすら苦痛を与えるものでした。葉牡丹を渡すために一軒一軒家を回っていく必要があったのですが、学校側によって分けられたグループは人数が多かったので、時間がかかり、「何故もっと細かくグループをわけないのだろうか」と効率的でないやり方にうんざりしていたことを覚えています。
私の住んでいた場所は、行動を共にさせられたメンバーが住んでいる場所から若干、離れていたので、最後に私が葉ボタンを配る番になると、私を良く思っていない同学年のメンバーが「みかんが葉牡丹を配りにいく場所は遠いから、ひとりで行け」といった内容のことを言いだしたのでした。
当時の私は意地を張り、「別についてくる必要なんかないから、ひとりの方が楽だ」と言い返し、一人で葉牡丹を届けに行ったのでした。
途中で半泣きになりかけたりと、今でも思い出したくない出来事です。
日常生活を過ごしていて、ふと不快感を覚えた時に何故自分がそう感じたのか思い出せないときは要注意です。
もしかしたら昔の嫌な体験を忘れようとしたとした結果かもしれないからです。
嫌な体験への対処として、忘れることが良くない理由は、怒りや悲しさを自分の中に押し込んでしまうことで、後々うつ病や体調不良につながるからです。
ただ怒りを爆発させれば良いというわけでもなく、スポーツ、芸術活動に打ち込むなど行動のエネルギーに変えることや、あまりにも不当な扱いだった場合は気持ちが落ち着いた後に話し合いの場を設けるなどの対応で補うことで解決を図ることが必要かもしれません。
私の場合は、無理に忘れようとしたものの、完全に忘れることができず、嫌な出来事と葉牡丹が結びついてしまい、何故嫌な感情を抱くのか思い出すことが難しい状態になってしまいました。
嫌な気持ちを抱くに至った原因を思い出すことがあれば、傷を癒す(ex.信頼できる相手に話すなど)ことが必要になってきます。
恐らく今の私の不調とも関わりがあると考えているので、自分の中にある無理やり忘れようとした幼少期の怒りや悲しさをどう癒していくのかこれからの課題になっています。
精神科・カウンセリングについて考えたこと
ここ2~3年ほど心療内科、精神科を転々としていて、どの病院も途中で通うことをやめていたのですが、最近やっと薬をもらいに行く場所もしくは、休職のために診断書を発行してもらう場所だと割り切れるようになってきました。
心療内科・精神科に行くと、抑うつ症状がひどい、頭痛がひどいなどの今起こっている症状には薬を出すなどの対処、仕事を続けるにあたり支障があるような状態の時には休職のための診断書の発行などができますが、上記のような症状を引き起こしている根本的な原因の解決にはそう結びつかないです。
症状を引き起こしている根本的な原因(ex.家族関係など)の解決にはつながらないので、心療内科・精神科は意味があまりない存在なのかと考えたのですが、それも少し違う気がしました。自分で把握している範囲の症状に対処するには、薬の処方など役立つこともあるので、そういった点では役に立たないというわけではないです。加えて、休職のための診断書を書いてもらい、会社とのつながりを保つことなどの手続きの場面では役立ちます。
カウンセリングを受けている間ももやもやしていたのですが、「死にたい」と零した時に精神科に相談してほしいと言われ、精神科では詳しい話はカウンセリングか何かに言ってほしいと一蹴され、たらい回しにされたことがあるので精神科もカウンセリングの両者ともあまり信頼はしていません。
金銭を支払ってあまり話を聞いてもらえず、徒労感も覚えるという理由で通院をやめる・再開することを繰り返していたのですが、余計な疲れを蓄積させずに治療するとなると、過剰な期待は抱かずに、症状を伝えて抗うつ剤をもらうようにしていればまだ良い気はします。
精神科・カウンセリングに行くときの心構えとしては、過剰な期待をしないこと、これに尽きます。余計な疲れを少なくするために、あくまで自分で分かる範囲の症状を軽くするのに少し役立つくらいの認識でいることがおすすめです。
近況報告
近況報告ですが、何とか仕事には就いたものの、うつ病を悪化させて、12月上旬頃から仕事を休んでいます。
文章を書く気力もない日々が続いていますが、じわじわと考えたことや感じたことをまとめていきたいです。
以下、自分語り
小学校・中学校時代は周囲と上手くいかず孤立し、高校生活では過剰適応に近い状態になり、ちょっとしたことで暴発しかけたり、人間関係にはずっと悩んできました。
人間関係に息苦しさを覚えていたので、誰も自分のことを知っている人がいない場所へ行きたいという思いが募り、地元から離れた場所へと進学しました。地元から離れたら自分は変われるという浅い願望は、進学先であっさり砕け、人間関係の悩みに加えて、不全感、空虚感が輪をかけてひどくなりました。街中ですれ違う同年代の学生が他者と心を通わせ、一緒にいる姿を見ると自分はできそこないではないか、幸せになる資格がないのではないかという考えに憑りつかれていました。
心のどこかで破滅したいという思いを抱えながら、わざわざ苦手分野に突っ込んで、ノイローゼになるということを繰り返して、鬱屈とした生活を送りました。休職した職種は営業で、人と関わることが不得意であると自覚があるのに、その職種を選んだことで、休職しないといけないレベルにまで摩耗したので、命のリスクマネジメントができていないと言える状態です。今は自滅的な行動を繰り返す理由、これまで縋ってきた破滅的な生き方をどうしたら変えていけるのかということを考えながら、日々を送っています。