空と海の彼方

機能不全家族のなかで育ち、アスペルガー症候群と診断が下りたみかんの日々を綴っています。ひっそりと暮らしたい。

自己受容の大切さ

 人と話すことが苦手な自分の性格を変えなければと思い、長い間苦しんできましたが、最近は暗くてもいいじゃないかと少し思えるようになってきました。
 変えられる部分と変えられない部分がありますが、自分の気質など変えることが難しい部分は無理に変えないでいい

 もちろん、勉強をしたり、経験を積んだりして、変えていくことができる部分を少しずつ変えていけばいいと考えています。
 
 両親は私に対して、できないことや変えることが難しい部分を変えるように要求してきました。彼らに愚直に向き合い、努力してきた時間は、労力に対して報われることがなかったと感じています。
 自分の悪い部分も含めてちゃんと自己受容をすることが大切なのだなと思いました。

 自分の全てを肯定するのではなく、あくまで受け入れるという姿勢でいきたいです。

 

空虚感について

 ただ生きているだけで、得体の知れない空虚感、焦燥感を感じる。この感覚の原因について考えています。
 私が育った家庭は父と母、年の離れた弟と父方の祖父母の三世代同居家庭でした。一見すると、普通の家庭でしたが、実情は祖母と母の仲が悪く、幼稚園時代、小学生時代と幼い頃から、母と祖母のクッション材のような存在となっていました。幼稚園児にして母が祖母との間に起きた諍いの愚痴を聞く役割を負っている状態でした。父はどうしていたのかというと、祖母寄りの立場をとっていました。彼もまた母のいない場で、母の愚痴を言っていました。この流れから、幼い私は人間不信と結婚への嫌悪感を覚えたました。  

 人を信じることができない、頼ることができないということがどれほど苦しく、辛いことか私なりに人と話すようになってきた際に理解できるようになってきました。
 不信感と空虚感によって、私自分の身に起こっていることがどこか遠くのことのように感じる状態が長く続きました。

 新年早々、今となっては下らない理由で父から蹴られたことがあったのだが、父は私が思い通りに動かないとよく怒鳴りつけるもしくは、叩くということがあり、人の気持ちに鈍い人物でした。父は高校を卒業すると、すぐに就職して働きに出ており、祖母父は国公立大学の進学しか認めておらず、父は不本意ながら進学をあきらめる形となっていました。
 そのせいなのだろうか父はやたらと私の教育に熱心でした。私が長子だということもあるのか、やたら一方的な期待をしていました。彼のなかで理想の子供像、人物像があり、それに私を当てはめようとしてきたことが苦痛でした。彼のなかで、いつも明るく元気でいること、成績もよく、運動が好きだとよろしいようでした。無気力だった私にとって、「いつも明るく元気で」、は非常に暴力的でした。
今でも印象に残っていることは、小学生の頃の運動会のことです。正直に言うと、運動会になんて来たくなかった私は、暗澹たる思いで他の生徒が運動に興じている姿を眺めていました。
 父が運動会に来ていたのですが、私の幼馴染が私のことを暗いと評していたことを父が耳にし、私にもう少し明るくできないのかとそう言ってきたのでした。父が押し付けてくる「明るく、元気に」が本当に重く感じたし、他者からの目線を優先したことにショックを受けました。父も母も他者からの目線を私よりも優先していました。このことは私の後の考え方や価値観にも深く影響していくことになります。自分のなかの軸という非常に重要なものを他者からの評価という、曖昧なものに頼り、苦しむことになります。

 

一番古い記憶

  古い話を蒸し返すことに意味があるのか、ずっと悩み続けてきたのですが、自分の気持ちを吐き出してしまおうと考えました。私が覚えている限りで一番古い記憶は、薄暗い寝室のなかで父と話をしていたことです。このとき父は母のことを指し、「あんな人間にはなるな」と私に言ってきたのでした。
 当時の実家は、寝室が襖で仕切られており、話し声は聞こえやすい造りになっていました。
 襖の向こう側の気配もよく分かり、当時の私には母がいることが分かっていました。母は寝室には入ってこずに、隣の部屋へと向かいました。当時の私は母を追いかけ、隣の部屋まで行きました。このときに母をかわいそうに思ったのか、幼い私は母の味方になるといった類のことを言ったのでした。如何せん、昔の話なので細部は覚えていないのですが、こんな感じの流れでした。
 現在、色々あって母に対して怒りを抱いている状態ですが、祖母や父との喧嘩の後に愚痴を聞くポジションにいたからということが関係しているのだなと感じました。私が味方になってほしいときに、私の味方にならなかったという理由だと推測しています。身勝手なことは分かっていますが、私がこれだけのことをしたのだから、その分を私に返せという理屈なで怒りを抱いているのだと考えています。子供時代の私の時間を返してほしいし、甘えてるかもしれないことは承知で、味方になってくれる人がほしいと感じました。

 

はじめに

はじめまして、みかんと申します。サイトに記事を作成することに不慣れなので、見辛い部分が多々あります。

これまでのみかんの経歴
 
・幼児期
  周囲との間に見えない壁のようなものを感じ、幼稚園に行くことがしんどく感じる。
 母は父と父方の祖母と仲が悪く、家庭内の雰囲気がギスギスとしていた。父と母の喧嘩にしばしば巻き込まれる。家庭と幼稚園の両方で居心地の悪さを感じる。

 

→児童期、小学校入学
  長時間話を聞いていることが苦痛で、勉強が苦手に感じるようになる。父による暴力を伴う算数の指導で無気力になる。
 周囲の生徒と上手くいかなくなる。当時、最も親しかった友人が転校すると、いじめのターゲットになる。学校でも家でも孤立する。
  療育センターに通い始める。一週間~二週間に一度の頻度でカウンセラーの先生と話をする。この時に、アスペルガー症候群の診断があったが、私には伝えられず。

 

→中学校入学
  周囲とのズレに悩む。14歳の春頃から再び、療育センターに通うようになる。成績が芳しくなく、叩かれながらの勉強がスタートする。必死になって勉強した結果、成績だけは良くなる。

 

→高校入学
  父の念願が叶い、第一志望の高校に入学。周囲との関わりの悩みは継続。父は運動部に入ることを希望しており、運動量が激しくなく、かつ、続けられそうという理由で弓道部に入部する。
  運動経験がなく、最初の筋トレでついていくことが辛く、このときに苦手な同級生から目をつけられる。何かある度につつかれるようになる。
  高校3年の半ば頃から、集中力が落ち始める。

 

→大学入学
  実家から解放され、晴れて一人暮らしをする。集中力は落ちたままだったので、講義を受けるので手一杯になる。
  アルバイトで上手くいかず、20歳の半ば頃からスクールカウンセリングを受け始める。
 心療内科に通い始める。実家に帰った際に、小学生時代にアスペルガー症候群の診断が出ていたと知る。

→大学卒業間際
大病院にて、ウェクスラー成人知能検査を受ける。改めて、診断書をもらう。手帳の申請の途中。今後の身の振り方を考えている。

→卒業後

就職はするものの、うつ状態が悪化して、休職する。