空と海の彼方

機能不全家族のなかで育ち、アスペルガー症候群と診断が下りたみかんの日々を綴っています。ひっそりと暮らしたい。

発達障害者と一人暮らし

 大学進学や就労を機に一人暮らしをしなければならないことはよくありますよね。

 

 特に発達障害者が相談できる場所なしに一人暮らしを送ることは、定型の人の何倍も努力が必要となってくると思います。

 

 私は数年間、大学進学のために地元を離れて一人暮らしをしていました。知り合いが誰もいない場所、かつ単位のことも考えて自分で時間割りを決めなければならないという状況に途方に暮れるところから私の大学生活がスタートしました。

 

 振り返ると「~しなければならない」、「~せねば」と焦りに突き動かされて行動してきたので、自分の気持ちが分からない、何が好きだったのか分からないという状態で、周囲の学生の春を謳歌する様子を尻目に楽しみ方が分からないままでした。

 

 小学校高学年の頃に、地元の療育センターに通ってはいたのですが、高校入学を機に、交流がなくなり、支援がない状態のまま、慣れない土地での暮らしが始まることとなってしまいました。

 

 「普通の人」と同じようにアルバイトをすること、サークル活動をすることに憧れていたのですが、私の特性(衝動的、時間を守ることが難しいなど)で人間関係が上手くいかず、うつ状態になりました。相談できる場所があればよかったのですが、進学先の大学では身体障害の生徒への相談室はありましたが、発達障害の生徒への支援はなく、私が三年生になってから支援が開始しました。

 

 始まったばかりでノウハウの蓄積がないのか、私の場合は、日常生活の困りごとについて相談をしたかったのですが、ただのカウンセリングで終わってしまっていました。     

 お話をしていた臨床心理士の先生も発達障害にそう詳しくなく地域の発達障害者支援センターと特に連携をとることもなかったので、いよいよ役立っているのか分からない状態でした。

 

 結局、大学生活は混乱したまま終わってしまいました。終わった後に俯瞰して考えると、人間関係での困りごとは高校時代も絶えなかったので、療育センターもしくは発達障害者支援センターに通い続けるべきでした。中学卒業時に療育センターとのつながりがよく分からない理由で途絶えてしまい、もしも高校時代にもつながりがあれば、進学先の地域の支援センターに引き継いでもらえたのではないかと考えています。進学先に生活での困りごとを相談できる場所があれば、もう少し楽に過ごせたのでないかと思います。

 

 もしも発達障害と診断が出た方が一人暮らしをする場合は、お住まいの地域のお世話になっている支援施設から引っ越し先にある支援施設(ex.発達障害者支援センターなど)に紹介の電話等をしてもらい、引き継ぎを行い、相談先の確保をすることが大切だと思います。

 

 私みたいに相談先が分からない状態で、無理をして高熱、肺炎に罹ったり、人間関係に悩んで二次障害であるうつ病になったりする方が少しでも減ってほしいです。

映画「わたしを離さないで」 感想 ※ネタバレあり

 カズオ・イシグロ氏作のSF小説が原作となっている『わたしを離さないで』を見てみました。見てから日が経っているので少しうろ覚えです。
 
あらすじ
 「1952年 不治の病とされていた病気の治療が可能となり、1967年 人類の寿命は百歳を超えた」という言葉から物語は始まります。
 キャシー、ルース、トミーの三人が主要な登場人物になります。どこか閉塞感を漂わせる寄宿学校ヘールシャムを舞台に彼らの日々は繰り広げられていきます。学校ではギャラリーがあり、優秀な作品を決めたりしているようです。序盤に触れられたこのギャラリーがかなり重要な役割を担っていたことがラストで判明します。生徒たちの間では寄宿学校の外に出た生徒は、恐ろしい目(殺害される・餓死したなど)に遭うという噂が囁かれていました。
 女子同士の独特の付き合いが苦手なキャシーと癇癪持ちで周囲から浮いていたトミーは徐々に距離を縮めていきます。ある日、キャシーと仲が良かったはずのルースがトミーとキスをしているところ目撃してしまいます。
 寄宿学校の生徒たちは臓器提供のために作られた存在のようで、大体は三回か四回かの手術で一生を終えるということが知らされます。生徒たちに向けられた説明は、最後に「自分というものを知ることによって生に意味を持たせて下さい」との言葉で締めくくられます。
 メインの三人が18歳になった1985年に、寄宿舎から離れ、コテージと呼ばれる場所で共同生活を始めます。ルースとトミーは交際をしており、キャシーと彼らは微妙な関係になります。
 男女のカップルが本当に愛し合っていた場合、臓器提供まで時間の猶予をもらえるという噂を耳にします。臓器提供者である彼らの向かう先とは…。
 
感想
 映画を見ていて、まず映像が綺麗だと思いました。寄宿舎の建物も海の風景も印象的で、ポストカードで一枚欲しいと思うような景色でした。 
 
 コテージにてマースとトミーが付き合っているなか、キャシーは孤立を深めていきます。ルースはよくいる気の強い女の子かと思ったのですが、映画が進むにつれて弱さを見せていきます。特に印象的だったシーンが、キャシーに対して自分とトミーとの間に入り込む隙はないと言う場面です。本当に入り込む隙がないのだったら、わざわざこうしてアピールしないだろうし、彼女の弱さ(というか強がり)が表れているなと。
 コテージを出た後に再びトミーも加えて三人で時間を過ごすのですが、このときにルースがキャシーとトミーの仲が羨ましかった(確かこんな感じのことを言っていた)と伝え、ラストに近づいているこの場面はどことなく哀しさが漂っていました。

 最後の場面で、臓器提供によってルースもトミーも亡くなった後、キャシーが「私たちと私たちが助けようとした人たちの違いは何なのだろう」と言って、エンドロールを迎えます。
 映画のなかで、臓器提供のためのクローンである彼らの悲喜こもごもを見ていると、待ち受ける結末の残酷さが際立ちます。
 
 途中で出てくる「本当に愛し合っている男女は臓器提供までに三年の猶予期間をもらえる」という話は、あくまで噂でしかなかったことが映画も大分終盤に差し掛かったあたりで判明し、終わりを予感させます。「本当の愛」を証明したら~の件でおとぎ話を連想したのですが、ディズニー映画とかだったらきっとハッピーエンドだったのだろうなと思いつつ。

 ギャラリーを作った学校側の意図はクローンである彼らに魂はあるのか確認するというものでした。ここまで映画を見てきた結果としては、趣味が悪い実験だとしか思えないわけですが。
 ラストの問いかけに対して、恐らく臓器提供のためのクローンとオリジナルに大きな違いはないと思いました。違いがないからこそ、まっすぐ臓器提供者として死を迎える運命にあることが物悲しい。
 色々と思うところがあった映画ですが、上手く言葉にならないです。(汗)トータルではおすすめの映画になります、また原作の小説の方も読んでみたいです。

wais-Ⅲを受けてみて

 アスペルガー症候群を疑い、ウェクスラー成人知能検査Ⅲを受ける機会がありました。自分の得意・不得意の整理のためと、長年の疑いを晴らしたかったからです。結論としては、私が疑っていた通りにアスペルガー症候群と診断されました。
  
 言語理解、知覚統合、作動記憶、処理速度の主に四つの分野の知能が測られます。まず簡単な検査結果が返却されました。
  
 知能検査の結果は、全検査IQの数値に関しては私が悲観していたほど低くはなかったので安心しました。ただ言語理解の数値に対して、知覚統合の数値が極端に低かったです。
 
 正直なところ、得意・不得意の数値の差が大きくて驚いています。差が大きければ大きいほどストレスを感じやすいとの記述があり、自分の感じている生きづらさの原因の一つなのだろうと思いました。
 知覚統合は視覚的な情報の処理が評価される分野です。臨機応変に対応する力、目でみたことや耳で聞いたことをまとめる力が私は弱いようです。これもかなり心当たりがあります。(アルバイトをしていた際に電話応対が全くダメだった…)
 
 性格面については、不安傾向が強く、自分自身の気持ちと他人の気持ちを考えることが苦手だという記述がありました。自分の行動を振り返ると、加減が分からず頑張りすぎたりして疲れることがよくあったので、自分が感じていることに鈍いという性質があることに思い至りました。(そして、人の気持ちにも鈍い)
 
 対人接触の多い仕事は避けたほうが良いとの記述があったのですが、
人と関わらない仕事なんて(あまり)ないだろ
と思ったので、何とか本を読むなり、疲れない範囲でセミナー・講座に出てみたりと、処世術を身に着けていきたいです。

 春から就く仕事があまりにも上手くいかない場合は、また何か考えないといけないなと。

 フルタイムで働けるのかとか人間関係がうまくいくのかなど不安要素はいっぱですが、とりあえず働いてみてからまた考えようと思っています。
 

分かってほしい症候群

 理解者がほしいという気持ちがずっと昔からあります。家族との関係が上手くいかず、学校生活でも上手くいっていなかったので、自分の気持ちを分かってほしい、愛されたいという気持ちが人一倍強かったように思います。
 

 分かってほしい症候群とも言えば良いのか、この気持ちがなかなか厄介で、私は他者に過剰な期待をしてきました。他者に家族の役割や自分の欠けたものを補うことを期待していたので、人との距離感がおかしい状態が続いていました。長い間、「どうして私の味方はいないの⁉」とか「どうして分かってくれないの⁉」と怒りを覚えていたのですが、私が体験してきたことは私にしか分からないということ(当たり前のことなんだろうな)をやっと受け入れつつあります。
 

 それぞれ悩みや痛みを抱えていて、それを分かり合うことは難しく、人との関係性は結局のところ、どこまで行っても平行線なのではないかと思います。このことは当たり前のことだと思うと同時に、どうしようもない寂しさを覚えます。
 

 最近、カウンセリングを受けたり、病院の先生とお話したりすることがあり、一人で抱えていることが辛い荷物は支援を行っている人たちと少しずつ分担して持っていくという選択肢があることに驚いていたりします。他者との関係性については、どうせ平行線で分かり合うことができないのならばと、ずっと本音を言わず、友人とも無理やりおどけたりしてなるべく深く関わらないようにしてきたからです。臆病なことに、今まで仲良くしていた相手から見捨てられることを過剰に恐れてきたので見捨てられる前に自分から離れようと思い、一方的に関係を絶ったことがありました。振り返ると、私の一貫性のない態度に傷つけてしまった相手には本当に申し訳なく思います。見捨てるとか見捨てられるとかではなく、もっと怯えずに人と関わっていきたいものです。
 

 100%自分の味方になる救世主じみたものは存在しないわけですが、ネットの海を漂流していて、案外悩みの相談に乗ってくれるような場所(いのちの電話だったり、よりそいホットラインだったり)があることを知って、相変わらず気分の上下は激しいのですが、少し気持ちは楽になりました。
 

ぶらり旅① 神戸編

    しばらく音沙汰がありませんでしたが、何とか生きています。
 最近は日帰りの一人旅に出ています。新しい場所に行くことへの苦手意識を解消するために日帰り旅行をしているのですが、以前から行きたいと思っていた神戸の異人館に行ってみました。
 神戸には小学生時代の家族旅行と中学生時代の修学旅行で行く機会はあったのですが、一人で足を運ぶ機会はありませんでした。
 修学旅行に関してはあまり良い思い出が残ってない(周囲に合わせて、無理やりニコニコしていた)ので、自分の行きたい場所を選んでもう一度観光してみたらどうだろうと思い立ち、日帰りで旅行してみました。
いざ、行かん!異人館
 一人で何だかうきうきしながら、電車に乗り込みました。
 子供時代に巡ることができなかった場所を優先してみようと、まずは「うろこの家」、「うろこの美術館」から行ってみました。
 「うろこの家」の外壁を覆っている天然石が魚のうろこと似ていることから、この名称になったようです。
(参照先:うろこの家公式ホームページより)
 内部には、イギリスの「ロイヤル・ウスター」、ドイツの「マイセン」、デンマークの「ロイヤル・コペンハーゲン」など有名な陶磁器が展示されていました。
 マイセン磁器のなかには、かわいらしい人形チックなものも展示されていました。陶磁器の人形って本当に可愛くて欲しかったりするのですが、如何せん片付けが苦手なのでいつも写真を撮って終わります。流石に埃を被らせるようなことはしたくないです(汗)
 うろこ美術館の展望室の見晴らしは良く、神戸の街を一望することができるのでおすすめです。
 
ラインの館にも立ち寄ってみたのですが、タイミングが合わなかったのか入ることができませんでした。また、リベンジしてみたいです。
 
 続いて、オランダ館、デンマーク館、オーストリア館にも行ってみました。デンマーク館では、人魚の銅像がありました!アンデルセンの書斎の展示も見ることができて満足です。アンデルセンの童話が好きなので、書斎の展示でその世界にどっぷりと浸ることができました。

学生時代は西洋史を勉強していたので、異国情緒のある異人館や神戸の街の雰囲気はとても楽しいものでした。イタリアの家具なども売っていて、元町の商店街もまた行ってみたいです。

 今回の旅行で分かったことは、自分のペースで行く旅は楽しいということです。(今更)
 旅行が好きでないと思い込んできた理由には、人のペースに合わせることを強要されていたことが原因だろうと思います。自分は何が好きなのかよく分からないままここまで来てしまったので、少しずつ自分の興味のあることを模索していこうと思います。
 

 

「皆、それぞれ苦しんでいる」という言葉

 辛い気持ちを伝えるとこのような言葉が返ってくることが多いです。世間でも、自己責任や努力が足りないという言葉が溢れかえっていますが、相手を責める意図をひしひしと感じます。努力という語や精神論は大体が相手を追い詰めて終わっている気がします。
 こういった言葉からは、皆それぞれ苦しんでいるのだから、お前も苦しめという意思しか感じ取れないです。私的には、こういった言葉を言っている彼ら自身が苦しんでいるから、他人が弱さを口にすることに腹が立つのかなと思います。

 この傾向を放置すると、暴力がより弱いものへと向かっていき、社会全体の息苦しさが増していくのだろうと思います。

 発達障害当事者で少数派に属している私は、上記のように感じています。

 気持ち的に落ち着いたら、もう少し良い受け取り方ができるようになるのかもしれませんが、今はいっぱいいっぱいです。

 

言葉の暴力

「毒になる親」の例として、「お前のために言っているんだ」という言葉を振りかざしてくるタイプもカウントされています。
 実家の両親は日常生活のなかで、いつまでも何年も経つような失敗を話題に出してからかってきたり、私をコントロールできないと判断すると「お前のことを思って言っている」という一言を切り出してくる人たちでした。

 私は自身の持つ発達障害の傾向から、長時間、授業で話を聞いていることが苦手な子供でした。この特性から学業の成績は芳しくありませんでした。
 父に「お前はなんて馬鹿なんだ」、「○○(当時の同級生の名前)のような子だったら良かったのに」と言われて、これまで罪悪感を抱いてきました。

 私が私であることを否定してくる言葉を投げてくる相手に、私は好かれようと努力し、死に物狂いで学業に励もうと、彼らは変わりませんでした。

 言葉の暴力は人間の大切な部分である自尊心を破壊していきます。木造の家を白蟻が内側から食い散らかしていくように、人の心を内側から壊すものです。

 身体的な虐待はまだ目に見えやすい(決して身体的な虐待を軽視してはいません)ですが、言葉による暴力は痕に残らないのでなかなか周りからも本人自身も気づき辛い部分があります。
 特に「お前のためを思っている」と恫喝してくるタイプの毒親の多くは、子供に罪悪感を植え付けてきます。
 彼らにこれ以上、心をズタズタにされる前に何とか逃げてほしいです。逃げると言っても、難しいものがあるでしょうが、手っ取り早いのは経済的に自立し、毒親と住居を別にすることだと考えています。

私は何とか春から経済的には自立に近づけそうなので、何とかやっていきたいです。